デジタルアーカイブス

01、開校当時の記録

聖学院中学校が文部省(現・文部科学省)からの認可を受け、授業を開始したのは1906年(明治39年)9月11日のことです。
当時の日本は、日露戦争が終わった直後で「戦勝国」でありながら、その成果が期待通りに得られず、国民の不満が政治や西洋社会に向かっていた時代でした。
このことは、本校の開校にも少なからぬ影響を及ぼし、1906年4月の「日誌」では、既に使用教科書の手配が完了していたにも関わらす、文部省からの開校許可がなかなか下りない状況でした。

そうした苦難を乗り越えて、ようやく9月に入り入学試験を実施。授業式が執り行われました。
聖学院は、「神を仰ぎ人に仕える」という建学の精神を、いまもなお堅持しています。

開校当時の様子を記した日誌と、明治45年に聖学院中学校を卒業された關本勇治氏の卒業証書を紹介します。

02、1908年に描かれた「中里乃天地」聖中學報創立30周年記念號(昭和11年11月1日發行)

聖中學報第3號 創立30周年記念號(昭和11年11月1日發行)に、第3回卒業生の圖案家・關本有路漏氏による「1908年 中里の風景」が描かれています。
また、裏表紙にはライオン齒磨本舗 株式會社小林商店の全面広告が掲載されています。

本記事については、「一企業の広告の範疇を越えた歴史的価値の高い史料」と判断し、ライオン株式会社の許諾を得た上で掲載しています。

03、聖学院初期の頃~100年前の聖学院を振り返る

大正4年(1915年)の聖学院を描いた文章が、図書館閉架書庫から発見されました。これは、本校の卒業生で、第5代校長の畑中岩雄先生が、聖學院新聞(昭和35年発行)に寄稿されたものです。

100年前の聖学院には寄宿舎があり、聖学院神学校の生徒も利用していたことや、学校周辺には田園風景が広がっていたこと、夜半を過ぎても勉強にいそしむ寮生の様子などが描かれています。

大正4年というのは、国際的には、第一次世界大戦が深刻化していった時代です。一方、国内に目をむけると、この時期にシャープペンシルやチューインガムが発明され、また銀座の喫茶店に足を運ぶことをさす「銀ブラ」という言葉も生まれました。現在、高校一年生・現代文の教科書に登場する「羅生門」(芥川龍之介)も、この年に発表されています。

なお、同時に掲載している写真は、、大正10年に撮影された寄宿舎と神学生・中学生です。前列中央に当時の畑中岩雄先生がおられます。

04、幻の学校歴「大正16年1月~3月」

大正から昭和に移り変わる瞬間を表わしたものです。
「大正16年 總豫定表」。
今でいう「学校暦」です。

大正天皇は、1926年(大正15年)12月25日に47歳で亡くなり、この日が昭和元年となりました。このことから、今回、紹介する「大正16年總豫定表総」は、「来年も大正という元号が続くこと」を前提にして、学校の予定を書いたものであることが推察されます。
内容を見ると、1月~3月という、今の3学期にあたることから、「入学試験」「卒業証書授与式」「定期考査」などの日程が記されています。

05、1933年に発行された「瀧野川町誌」

聖学院中学校高等学校がある東京都北区は、もともと「瀧野川町」と呼ばれていました。
図書館では1933年(昭和8年)に発行された「瀧野川町誌」を所蔵しています。
この中に、本校のことが記載されています。

聖學院中學校
瀧野川町中里二五七番地に在り。本校は明治三十九年九月米國「チャーチズ・オヴ・クライスト」により創立され同四十年六月十五日文部大臣認定の中學校となつた、創立當時交通不便の關係上特に生徒の定員を二百名に限りたるも昭和五年創立二十五周年を迎へ記念事業として定員を四百名に倍大し昭和六年四月一日より實施した。
本校の校地は四,〇三二坪、校舎は一五九坪餘、普通敎室五、特別敎室一である。
本校の敎育方針は智育偏重の弊を避け、生徒天賦の徳性を助成し之が完全なる發達を企圖し、生徒各自の高潔なる人格の完成に力を注ぎ、その徳操を涵養し、品性を練磨し、その天稟を發揮せしむる點に最善の努力を拂つて居る。
本校生徒の學費は、授業料年額六十六圓、學友会費年額三円三十銭である。他には一切徴収せず。
本校創立以来の卒業生は六六〇名に上つて、其の中には我國最高の學位を得た者、高等専門の敎授たる者、其の他實業界、宗敎界、政界等に錚々の名を馳せて居る者も尠なくない、上級學校入學の點から見ると最近四ヶ年の統計は上級學校入學志願者一三一名で入學者九二名であり七割強の比率を示し府立各學校以外には、全く異數である。現校長は平井庸吉氏である


瀧野川町誌 : 町制廿周年記念東京市併合記念 / 大嶋貞吉, 下村元治郎編著
東京 : 瀧野川町誌刊行會 , 1933.6
827p : 図25枚 ; 23cm

06、1934年(昭和9年)の「キリスト教学生キャンプ」のパンフレット

1934年(昭和9年)の8月に行われた「キリスト教学生キャンプ」のパンフレットと、1927年(昭和2年)から1931年(昭和6年)までの「学生中等部委員会」議事録です。
議事録には、初代校長・石川角次郎先生が話し合いに参加されていたこと、1930年(昭和5年)の昇天により補欠選挙が行われていたことがわかります。

【1934年(昭和9年)の世相】
・満州国に帝政が敷かれ、溥儀が皇帝に即位した。
・渋谷駅に忠犬ハチ公像が建立され、ハチ公自身も除幕式に参加した。
・ベーブ・ルーズら17人の米大リーグ選抜チームが来日した。
・日本初のアメリカンフットボールの試合が神宮で開催された。

同時に、日本は次第に軍国主義の色合いを強めていくことになります。
聖学院をはじめとするキリスト教学校にとって、厳しい時代が目の前に迫っていました。

07、1936年(昭和11年)の記念祭

1936年(昭和11年)、日本は、第2次ロンドン海軍軍縮会議(日米英仏伊)を脱退し、軍事力増強にむかいます。同時に、国内では二・二六事件により東京に戒厳令が施行され、穏やかではない雰囲気が漂いはじめました。
一方、文化・世相に目をむけると、職業野球(プロ野球)が始まり、澤村栄治投手が初の無安打無失点を記録、ベルリンオリンピックでの「前畑ガンバレ」実況に国民が熱狂、ソ連のオペラ歌手 シャリアピンが日比谷公会堂で公演したのもこの年です。

そんな1936年(昭和11年)、聖学院は、創立30周年を迎えました。
ここに「創立30周年 記念祭」の写真と、事後行われた母姉会(現在のPTA)反省会の議事録の一部を紹介します。

近年、記念祭で販売されている模擬店メニューと、当時のメニューを比較してみましょう

【2016年(平成28年)】
唐揚げ
フライドポテト
焼きそば
ポップコーン
フランクフルト
調理パン
牛丼・味噌汁
アイスクリーム
ジュース
ワッフル

【1936年(昭和11年)】
おそば(藪忠出張)
お汁粉
おでん
みつ豆
シューマイ
パン
お寿司
アイスクリーム
お紅茶

08、1937年(昭和12年)発行「聖中學報 第5號」

ヴォーリズ社設計による新校舎定礎式の様子が書かれています。

09、満蒙開拓団

図書館の閉架書庫には、明治・大正時代に刊行された本や、昭和初期から戦時中に至る史料が数多く眠っています。
その中から「満蒙開拓幹部訓練所概要」「満州農業移民候補者選定ニ關スル内規」を紹介します。

日本が満州を攻め、義勇軍と名乗る若者を現地に送りこんでいた昭和14年、彼らを指導する人材の充実が喫緊の課題となり設けられたのが、満蒙開拓幹部訓練所です。
茨城県・内原に作られたこの訓練所へ入ることを希望する者に対して「要綱」が配られましたが、「内規」では、「要綱」には載せなかった、より踏み込んだ条件が書かれており、日本の満州移民計画の切迫した状況を窺い知ることができます。

10、授業ができず農地開墾の日々

1941年(昭和16年)、文部省訓令「学校報国団ノ体制確立方」により、生徒は勤労奉仕に動員されることになりました。1944年(昭和19年)には、さらなる動員が図られ、授業を継続することが困難となり、ついに1945年(昭和20年)3月、「決戦教育措置要綱」により、「1年間の授業停止、すべての時間を農地開墾に充てること」が義務となったのです。

11、聖学院の1945年(昭和20年)

昭和20年、太平洋戦争末期、いわゆる「銃後」のくらしの中で、人々は、日本の「勝利」を信じる者、本土侵略に怯える者、また、「隣組」と称した相互監視に躍起になる者、無謀であったと証言する者と、それぞれの受け止め方で戦況を見守っていました。
一方で、深刻な食料不足による塗炭の苦しみの中で、町中には、「早く負けろ、軍人の吠え面を見てやる」「満足に食べられるのは軍人だけだ」といった落書きが、至るところに描かれるようになりました。
キリスト教学校である本校もまた、苦難の時代を迎えていました。教職員や卒業生は召集され、グラウンドは「空地利用」と称して農場になりました。板橋の農場で開墾作業を強いられた記録も残っています。

我々は、昭和20年の出来事について、改めて考える必要があります。
「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」
これはユネスコ憲章の前文です。

ここに、昭和20年1月から12月までの間、本校教員によって書かれた学校日誌を公開することにより、聖学院が、戦火の中、建学の精神を堅持するために奔走していた事実を明らかにし、同時に、「平和を作り出す人はさいわいである」(マタイによる福音書5章9節)の精神を噛み締める機会にしたいと考えます。

12、1945年(昭和20年)8月15日の日誌

昭和20年8月15日の本校の「日誌」が、図書館の閉架書庫から発見されました。「日誌」は、教員がその日の学校の出来事や状勢を書き残したもので、中に出てくる人名は、その日に出校していた教職員を指しているものと思われます。以下、8月15日の記述を原文のまま紹介します。  

八月十五日 水 曇後晴

一、附課程(課)程 四、三年 勤労動員

  関根、赤坂、尾関、宇野、曽我

一、警戒警報発令 五、三〇  ・  一一、二五

  空襲  〃  五、四〇   解除 七、五七

一、正午 詔書渓発アラセラル(レ)重大発表ノ放送アリタリ、ポツダム宣言受諾ノ旨

今週中休校

8月15日の早朝まで空襲警報が発令されていたことや、5人の教職員が生徒指導にあたっていたこと、また、この日を境に生徒を休校させていたことがわかります。
今回、発見された「日誌」は、「自 昭和十九年四月 至 二十年三月 日誌」と「自 昭和二十年四月二日 至 昭和二十一年七月十六日 日誌」との二冊があり、昭和20年12月15日には、以下のような記述も見られます。

十二月十五日

一、三學期終業式 午后一時ヨリ行フ

一、クリ(ス)マス禮拝アリ合併教室ニ於テ

一、クリ(ス)マス禮拝後、全職員夕食ヲ供ス

一、校長當會ニ出席サル

13、1958年 第52回 聖学院記念祭アーチ

1960年の卒業アルバムに掲載されていた第52回(1958年) 聖学院記念祭アーチの写真です。

初代校長 石川角次郎先生の聖書

聖学院中学校高等学校図書館では、創立110周年記念事業として、初代校長 石川角次郎先生が生前に使用されていた聖書の電子化作業を行なった。
この聖書は、石川角次郎先生が召天された後、聖学院から銀製ケースとともに実弟の石川林四郎先生(英文学者、聖学院英語科教員、三省堂コンサイス和英辞典編纂者)に寄贈されたものである。今回、石川家の協力により、この聖書の完全電子化が完了した。
以下は、石川角次郎先生に薫陶を得た神学校時代の教え子による回想である。

思い出ずるままに  海老沢 廉  聖学院神学校大正十三年卒業

一番私の印象に残って居ります第一の事は、或時先生と二人きりでお話していた時、先生が開いた聖書の事であります。何十年御使用になった聖書でしょうか、一枚一枚丁寧にめくらないとバラバラになっているので、紛失の恐れさえある各頁を丁寧にめくりめくりして居かれましたので、小生は先生のその聖書は随分長く御使用になったのでしょうねと御聞きしました。先生は聖書は一冊限りを使用せられたらしく、その聖書の各頁には録す所なく細字で加筆してあり、一分の余地もなくなるまで書き込まれてあった事でした。先生が如何に偉大なる聖書学者であられたかがうかがわれる一つの事実であります。

(「伯父 石川角次郎」石川清 講談社出版より)

引照新約全書 ; 舊約聖書詩篇

横浜 : 大日本聖書館 , 1899.12

758, 224p, 図版[4]枚 ; 16cm

注記:奥付の出版者: 聖書館

初代校長 石川角次郎の履歴書

初代校長 石川角次郎の履歴書

慶応3年にお生まれになった、聖学院中學校初代校長・石川角次郎先生の履歴書です。

1892年のちはやふる 初代校長 石川角次郎先生の和歌

1892年のちはやふる 初代校長 石川角次郎先生の和歌

初代校長 石川角次郎先生がお使いになった聖書の裏表紙に、先生直筆の和歌が残されていました。
これは1892年(明治25年)、サンフランシスコから、米国留学を終えた先生が汽船オセアニック号で帰朝される際に詠まれたものです。

【原文と解説】
ちはやふる神にむかひてはちきらむ 心のそこのくもらさりせば
(神様にむかうと胸がはちきれんばかりだ 心の底には一点の曇りもないから)

くもりなき人の心をちはやふる 神はさやかにてらしみるらむ
(曇りのない人の心を 神様は清らかに照らしてくれるだろう)

めにみえぬ神のこころに通ふこそ 人の心の誠なりけれ
(目に見えない神様の心に通うことこそが 人の心の誠であろう)

ちはやふる神の心にかなふらむ 我くにたみのつくす誠は
(神様の心にかなうであろう 私の国の民が尽くす誠は)

罪あらば我をとがめよ天津神 民は我身のうみし子なれば
(罪があるのならば私を咎めてください天津神 民は私の身がうんだ子なのだから)

left S.F.at 3p.m. Saturday mar.26.
1892 by the steamer Oceanic
サンフランシスコを離れて
1892年3月26日
土曜日午後3時
汽船オセアニック号にて

※ちはやふる……「神様」に付く枕詞
※オセアニック号……1871年、イギリスのホワイト・スター・ライン社が建造した大型客船。3707トン。「現代客船の母」「王室のヨット」と呼ばれた。大西洋航路で活躍した後、太平洋航路(サンフランシスコ、ハワイ、横浜、上海)に使用された。
石川角次郎先生が乗船した前年、1891年には、新渡戸稲造が同船・同航路で帰国している。この時、横浜で帰朝者を迎えた税関長は、有島武(作家 有島武郎の実父)であった。